オスマン帝国と奴隷制

イスラム世界で多くの帝国の浮き沈みがあったが、このオスマン帝国は、一番大きくて、長く(600年)続いた。一番領土が拡張した時は、北は黒海の東から、オーストリアの国境まで。南はペルシャ湾から、イラン、シリア、ヒジャース(サウジアラビア西部)まで、イエメンを含み、エジプトを越え北アフリカの海岸沿いに沿って、モロッコまでだった。

1324年 開祖のオスマンの死後から最後のサルタンまで6世紀に亘って王座は続いた。帝国の名前は オスマン1世から。中央アジアの平原からアナトリア半島を征服し定住した。

※トルコ人:モンゴル高原を故地とし、紀元前3世紀ころからその姿を歴史上に表した遊牧の民である。彼らは9世紀ごろから軍事力としてイスラム世界に流入し、10世紀に初めてトルコ人を主体とするムスリム王朝が登場する。そして次第に西進しアナトリアに入ったトルコ系部族の指導者であるオスマンという人物が、この国を建国した。
※アルバニア人、チェルケス人、ギリシャ人、アラブ人、クルド人、アルメニア人等、で構成されていた。
※イェンチェリ軍団(元キリスト教徒奴隷臣下集団)
※ウラマー:イスラム学院で学び、イスラム諸学を修めた知識人。法学。シャリーア。
※イプン・バットゥータ: 旅行家。
※37代続いたアパッース朝のカリフは、二人を除く全員が奴隷を母とした。
※オスマン朝においても、ほとんどの君主の母は奴隷であった。非トルコ系の元キリスト教徒。
※「オスマン帝国」小笠原弘幸著 中央新書

 

始まり

1453年 メフメト2世が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノープル(the queen of cities)を制圧。
17世紀になると、西洋の植民地(アメリカス)製品、砂糖、綿、たばこ、と対決することになった。
アメリカスのプランテーションからの安い砂糖は、キプロスやエジプトの精製所を閉鎖させた。
帝国内で西洋の綿織物の需要の増加は、危機的状況の帝国の絹貿易にさらなる打撃を与えた。
17世紀のカイロでは、イエメンから帝国その周辺の市場へのコーヒーの中間貿易を支配していたが、より安いアメリカス(大陸)からの競争で、18世紀の中頃にはなくなってしまった。
 西洋植民地での生産だけが問題だった訳ではない。16世紀の初期までアナトリアのバスラでは、盛大な絹産業が花開いていた。しかし、すぐに北部イタリアの機械化された糸巻き機からの製品との競争に晒された。その収益で、イタリアの製造業者は生糸に多く投資、国際的に値段が上がるなかでも、それでもまだ帝国内に安い値段で織物を輸出した。
諸外国の製造業者もまた、絹と綿を織り交ぜだより軽くて安い織物を輸出した。
これらの織物は帝国内でもポピュラーになったが、反対にバスラの職人に嫌がられ、高品質の織物を好んだもっとも大切なお客であるオットマン宮廷で却下された。
 逆説的だが、利益率が高い時だけ儲かる奴隷労働に依存するオットマン帝国の製造業が、帝国内の産業を難しくした。 利益がきつくなって来た17世紀後半から18世紀にかけて、バスラの絹産業は徐々に傾いた。

オスマン帝国の奴隷制

 ここに大きなオットマン帝国経済の長い衰えの原因の一つがある。西洋では奴隷貿易の重要性について、奴隷制の制度化自体が資本主義を発達させたこと、産業革命などと、いろいろな意見がある。しかし、確かなことは、大西洋貿易は、際立って利益率が高い商業活動だった、その利益の一部は、貿易のための交換商品の供給をそれまで以上に増やし、産業拡大に投資された、そして、大きな利益を生んだのは、植民地農業の商業的プランテーションで、奴隷を一つ一つのグループ化するという方法で活用した。
 オットマン帝国では奴隷扱いは西洋と違った。
イスラムの教え、教義に従えば、奴隷達は明確な権利があった。現実的に、多くはサルタンの奴隷として兵士、公の仕事をし、将軍や長官に上り詰めた。実際のところ、自由人として生まれたムスリムがいて、イスラム教に則り奴隷にされることを免れていたが、地位の高い職業に就くためにわざとサルタンの奴隷になるものもいた。
 その息子がサルタンになった奴隷の側室は、当然宮廷の中での地位は高く、彼女自身のかなりの財政資源が得られた。数え切れない奴隷の運命がつまらないものであったり、悲惨だったのは確かだ。多くの生産的な小作人たちは、農作業のための奴隷を先取りしたし、オスマン帝国内の地主たちの大きな領地には奴隷がいたけれども、重要な資本蓄積のために利益を確保するためではなく、またそれに応じる人数でもなかった。
 そもそも西洋とオスマン帝国(イスラム)の奴隷制度の違いは、商業的か家内的かであった。 それは、西洋の家庭に奴隷が居なかったという事ではなく、オスマン帝国の様々な商業活動での奴隷の使用を見逃すことでもない。西洋での奴隷制度の根拠は単純に奴隷労働の経済的搾取である。オスマン帝国では、奴隷は個人的に奉仕である。一方西洋の奴隷制度は経済の生産量に直結し、オスマン帝国では消費という形態だった。
 奴隷の売買は厳格に管理されていた。絹や武器というような指定された貴重な品物を扱う奴隷は市場で公に指定された仲買人を通してしか売れなかった、というのも、買い手が騙されることもなく、公平な値段を払っているか保証するためだった。それ以上に、16世紀後期にかけて、商業的に資本を蓄積することは社会に利益を与えるのではなく搾取するようなものだと、特に不確かな儲けは疑われ、だんだん好ましくない状態になった。疑わしい他の商人に紛れて成功した奴隷商人は、大きな財政的損害が纏い付くようなリスクのあると名高い特別な奉仕を強制されることもあった。例えば、ヒジャーズ(聖地)に行くキャラバンにラクダを提供させられるという、高額な処罰があった。

西洋との違い

 このようなことがオスマン帝国の失敗で、西洋の経済発展のペースに、追い抜くこともさて於いて、ついていけなかった特質だった。帝国はイスラムという宗教的な構築物だった、貿易の利益には無関心で、貿易は人であることへの探求心に比べて高貴なものではなかった。 博学であること、軍人であることを通して 信仰を高めることの方が称賛に値する神の思し召しであった。イスラム社会ではナショナリズムが立ちはだかるが、西洋では、より物質的優先権を助長した。それは植民地主義だけでなく、資本主義の進歩に動機と機会を与えた。商人、実業家など最大の恩恵を受ける人たちは、その政策が彼らの利権により密接に関連するように、政府に干渉した。
 オスマン帝国との対比は著しいものだった。 信仰に努めること、道徳的真理を表現することの手段としての帝国の概念は、深遠な構成要素であった。市場の規制、商品の価格の固定化、利益の制限などを経済慣行などなど、大衆の生活必需品の供給を確保されるよう、社会全体の繁栄に拘わる教義上の訓令を行き渡らせた。決定的なのは、西洋の国家では、工業を促進するために、そのような保護主義的な方策は採用しなかった。オスマン帝国の市場は、帝国内の商品を買えない貧しい人々のために、安い外国の織物を受け入れていた。
 オスマン帝国では資本の主な貯蔵所は、相続したサルタンが設立した慈善団体だった。資本投機の資源は厳格に管理されていて、この資源を活用するのは基本的に、モスクを建てる、学校を援助する、武器を配布するなど、立派な仕事に限られていた。金持ちには、社会の特質と宗教的示唆という力学が、彼ら自身の慈善団体を立ち上げる保証を与えた。

ハーレム

 福祉国家というイスラムの初期バージョンは、絶対独裁国家で、その精巧な孤立は、規則の乱用と腐敗を生んだ。そのシンボルであり実体でもあるのは、メフメト2世が首都に建てたパレスである。三つの中庭があり、一番外側にある庭だけ、祭日か帝国評議会が開かれているとき大衆に解放された。何千人もの宮殿の警備員や使用人のなかの数人が、まれな場合を除いて、より奥に入ることを許可された。次に、「挨拶の門(The gate of Sautation)」を過ぎると第二の庭で、その「Hall of Divan(議会)」はサルタンの権力と豊かさを示す高価で華やかな装飾が施されている。そこで、サルタンはお気に入り国家の役人や宗教者に会い、時には目の前で、時にはカーテンを張った格子の後ろに座り、アドバイスを求めた。そして、第三の庭のその奥には、宮殿の中の宮殿、ハーレムがあり、サルタン自身か特別に許された者のみが入れた。
 サルタンの地位の特異性は召使いやガードの高潔さで守られた。これらは白人の若い男性奴隷であり、おもに帝国が征服したキリスト教徒であり、割礼されイスラムに改宗され、小姓の身分を与えられ、軍や民間の役職、職能を、サルタンのために訓練された。 やがて、侵略の時代が敵国のを抑制しようとする封じ込めになり、その後縮小すると、 適当な白人の奴隷の供給が急激に減少し、王室の高位の小姓達はのは父から子への相続で補足された。白人宦官のほとんどは、キリスト教ヨーロッパとチェルケルの去勢の中心地から購入され、新しい宮殿の家事行政の多くを担当したが、王室の高位の小姓たちはその訓練を特別に引き受けていた。
 サルタンの女性たちがいたハーレムは、ビザンツ帝国から受け継がれた、旧宮殿であった。そこでは、もっとも過激な去勢を受け、繊細な責務にもっとも適していると考えられた、黒人の奴隷宦官のみが雇われた。業務は付き添い、気配りというハーレム内での家事そのものをはるかに超えていた。彼らは、例えば、サルタンの母親:皇太后、お気に入りの内妻、サルタンの娘や姉妹の数々の財産、投資の管理を任されていた。

黒人宦官の働き

特に黒人宦官のチーフは権力をふるい、ハーレムのシステムの中で宮廷の女性たちが果たした特別な役割という観点からのみ理解できる力と存在を示した。教義上4人まで妻を持てるのに加えて、再生産のパートナーとして奴隷の内妻を持つことは、彼らを養う余裕があるならば、ムスリムの世界では普通に行われた習慣だった。ムスリムの支配者も例外ではなかった、彼らの富は、しばしば、彼らの地位を示す必要以上の数の女性を養うことが出来た。
オスマン王朝は究極を極めた。初期の2人のサルタンの正妻から生まれた子供たち以外は、事実上すべてのサルタンの子供は、内妻から生まれた。もちろん、結婚は規則としてなかった、例外として、特別に気に入った内妻であるとか、必要に応じてアナトリアの部族や氏族と親戚になることがあったが。他のアナトリア家の女性と結婚することは、その結婚を越えたものをもたらす危険があったし、ムスリムであろうがなかろうが、他の王朝の女性と結婚することは、同盟としてオスマン帝国が得られるもの以上の事が付帯すると考えられた。
 イスラムでの政治権力が家父長的でも、奴隷が母親でもオスマン帝国のサルタンを継ぐことは妨げにならなかった。しかしながら、内妻による世継の広がりは、時には犠牲を伴う相続権争になった。
 15世紀中ごろから、その争いを妨げるために、新しいサルタンは、彼の兄弟や息子を殺すことによって決められた。そして、16世紀の後半には、より一層の方法が取られた。仮定上の主権者としての力を蓄えることのないように、王子を地方の領主として任命することを辞めた、そして、サルタンの息子たちは、どんな歳でも、宮廷に閉じ込められ、彼らが王位を継ぐまで、父親は子供として育てることを禁じられた。
 しかしながら、宮廷の兄弟殺しの習慣は、破棄されるにいたった。1671年、アメフト1世が死んだとき、14世代にわたるオスマン帝国の歴史で初めて、彼の兄弟が継いだ。Leslie Peirce(アメリカの歴史家) は、「アフメト1世が引き継いだ22世代に渡るオスマン王朝では、サルタンの地位は一番年上の王子に継がれた、三度だけ息子が継いだことがあるが、ほとんどは、彼らの兄弟、少ないが甥であり、たった一度従弟が継いだ。」サルタンの心中に沸く突然の疑い、嫉妬、憤りが王子たちに与える平均寿命を考えると、年功序列による相続は次の跡継ぎにとって楽しい予想として少なくとも感謝のもとになったに違いない。
 断続する宮廷の揉め事があったといえ、20世紀に共和制になるまで、王朝は非常に神聖だと考えられていたので、支配する権利を持つことが何か真剣に問われることはなかった。西洋の王侯にとっては忌まわしいくはないとしても、異様に思われたこの神聖さは続いた。15世紀の中頃から、サルタンの娘や姉妹という皇女たちは、一般的に奴隷軍や民政で、すでに偉大な「宰相」となっているか、なるかの高官と結婚した。これらの 義理の息子であり、ときには義理の兄弟である「宰相」は、歴史家Leslie Peireによると「サルタンの内妻は、それらの男性とならんで、女性奴隷権力の最高位に上り詰めた。」
 「宰相」たちは、それ相応に金持ちで首都に多くの事業を持っていた。ある者は1300人の奴隷を持ち、ある者は1700人。ある者は、政府を統制し、軍や海軍に命令を与えた。と言っても彼らの妻たちの王朝のが彼らのを守ってくれるとは限らず、彼らの高位は危険が伴っていた。
 1536年に一人、1614年にもう一人、その高慢さを疑われサルタンによって処刑された。

サルタンの母:皇太后

 実際には、多くの場合、王女たちより重要で権力があったのは、サルタンのお気に入りの内妻であった。彼女は、自分自身の肩書を持ち、収入があり、それに相応する退職金を持っていた。しかし、帝国の中の女性たちの最高位は皇太后で、その地位や役割は、サルタンの母という以上のものであった。彼女は、王朝の正当性のシンボルであり、帝国の女族長であり、王位継承のため王子たちの誕生をプロモートし、続くことを保証すること、サルタンの用心深さや気まぐれで処刑される可能性を出来るだけ防ぐ責任があった。皇太后は、普通サルタンが小さいときとか、遠征しているときは摂政として行動し、あるものは国政において絶えず活発に行動した。彼女たちは、特に外国の統治者が女性である場合対応し、サルタンにアドバイスを与え、彼が遠征したときには、王宮での出来事を連絡し続けた。
 彼女は、巨大な俸給を認められ、その上地所から収入があり、皇太后はモスクや学校を建てるというチャリティーを行う有り余る資産があり、ゆるぎない人気を呼んだ。
 実際、帝国のハーレムの中での女性で唯一ハーレムを出ることができ、その上宮殿を出て公の場に現れた。しかしながら、彼女の行動範囲はハーレムで、国が他国を侵略することが二の次になり、サルタンが戦闘において軍を率いることがなく、サルタンが宮殿をはなれることが少なくなると、皇太后はサルタン制に大きな影響を与えた。
 皇太后や宮殿の内妻たちの警備や随行だけでなく、彼らの経済活動を司る黒人宦官たちは、その影響力を行使する重要な任に着いた。スレイマン1世(1520―-66)の治世の時、彼らの役割は増した。1541年、帝国のハーレムがあった旧宮殿の火事の後、スレイマンは彼のお気に入りの内妻たちを新宮殿に連れて行った、その後すべてのハーレムが移動した。漸進的とはいえ移動は17世紀の半ばになってやっと完成した。しかしながら、特に皇太后の地位の設置のインパクトは巨大だった。新しい宮殿はサルタンの私生活の中心であるとともに、彼の公の場でありこの近距離での二つの存在は、公より私の方が事実上勝った。
 黒人宦官たちは権力の戦略的な地位に到達し、政府の心臓から血液の流れをコントロールするバルブを操作した。メフメト三世の治世の最初の年、1595年すでにチーフ黒人宦官の日の出の勢いの支配権は、それまで白人宦官に与えられていた広大な年間収入のあるメッカ、メディナのモスクのような最高の聖地の管理する地位にまで達した。その地位はその後、サルタン自身によって設立された慈善事業の管理の責任を持った。その基本金はすべてのムスリムでないイスタンブールの人々からの絶え間ない税収入で、メフメト2世(Mehmed the Conqueror)の組織の人頭税として払われ、アメフト1世(1604-17)のバルカン半島での商取引を支えた資金になった。結局、オットマン帝国の公の財政の堅固な部門は、チーフ黒人宦官に委ねられていた。 
 彼らの本質的な社交範囲は宮廷のハーレムだが、重要な宦官ともなれば国家に影響を及ぼすし、宰相と同等でサルタンに次ぐ地位になった。フランスのルイ14世が心に描いていた以上に、サルタンは国家そのものであり、帝国が世俗的に具体化されものであると同時に不可視的に宗教的であったため、他のいかなる正式な地位が持っている以上にサルタンが国家を再現した。ごく近くに住みサルタンには外見上は何の制約もない、チーフ黒人宦官の役割はサルタンの事実上、私的大宰相となった。事実彼の公の宮中顧問、執行者としての役割そして、宮廷会議のメンバーとして正式なものとなった。
 主席黒人宦官としての地位と威信の広がりを見せたのは、1671年でアメフト1世が死んだ時で、後を継いだのは彼の長男オスマン、其の他5人の兄弟ではなく、アメフト1世の兄弟ムスタファだった。現代の歴史家Ibrahim Peceviによると、当時の主席黒人宦官が初めて父から息子への継承の第一義を破った。Mustafa Agha(黒人宦官)は、オスマンが14歳で彼の父が14歳で後を継いだにもかかわらず、オスマンが若すぎると他の政治家を説き伏せた。彼の意図は明らかで、アメフト1世の下で国家の業務のすべてに関わっていたので、権力を確かめる行為だった。
 主席黒人宦官が直接サルタンに影響を及ぼすことが出来ない場合、時にサルタンが幼少であったり、病弱だったり、人気がないとき、その相棒は十分に手ごわい皇太后だった。 その他の黒人宦官たちもいろいろな出来事にうまく対応した。皇太后がその力を劇的に示したのは17世紀だった。

堕落したイブラヒム-狂人皇帝

 1623年から1640年、治世したムラト4世は、戦場で軍を率いた最後のサルタンで、その母キョセム(皇太后)は政治手腕の及ぼし方、その内容で、最強の皇太后だった。彼らは冷酷だった。ムラト4世は彼の兄弟を殺した、一人イブラヒムを除いて、というのも母のキョセム がイブラヒムは政治なんかできないし、政権に何の恐れもないと説き伏せた。
 事実は跡継ぎを継続させようと、キョセムはイブラヒムに父の跡を継ぐように勇気づけた。 彼は躊躇なく後を継ぎ、彼の過剰な性欲で、歴史的な名称「堕落したイブラヒム」と呼ばれた。この激しい性欲はキョセムの優越(地位)を危機にさらした。彼女はサルタンのお気に入りの、日の出の勢いの内妻のひとりを宴会に呼び、その場で首を絞めた。しかしながら、イブラヒムは、少なくとも8人のお気に入りの内妻があった。1648年までには、彼はもう母のコントロールの域ではなく、彼女を首都の宮殿の一つに追放した。キョセムは、イブラヒムを取り除こうと、彼の増え続ける不人気を利用しようとした。彼女は、秩序から外れたきちがいだと宗教の権威からの判決をもらい、宮廷の警備員たちに協力をもとめた。彼は退位させられ殺害され、キョセムの7歳の孫をメフメト4世 として戴冠させた。
 これはキョセムの皇太后としての役割と権威の結果であり、新サルタンの母トゥルハンがその地位を確実にしたのである。しかし、まだ20歳代初期、ずいぶん若いトゥルハンを考慮に入れると、キョセムは、主席黒人宦官たちを含む同盟のネットワークを築き、摂政であると宣言しその支えを確実にした。
 このことは、いままでの慣例を破りスキャンダルになったのだが、、トゥルハンは彼女付きの主席黒人宦官Suleyman Aghaの助けで抵抗した。キョセムはこの陰謀を察知して先制攻撃した。彼女は若い兄弟の王座に代われる最年長の孫がいて、彼の母親はトゥルハンよりもより従順であり、満足していた。
 しかし、キョセムの女中の一人が裏切り制裁を受けていたトゥルハンに計画を伝えた。起こるべとだったかもしれないが、扇動された可能性ある。Suleyman Agha とその黒人宦官たちは、彼の命令でキョセムを殺害した。そのような由緒ある人物を首都で殺すと、人々はモスクと市場を、三日間の午前中閉めた。オスマン帝国では、皇太后の地位は神聖だった。しかし、彼女が共犯であるとのうわさがありながら、トゥルハンは皇太后となり摂政で、Suleyman Aghaは主席黒人宦官の地位に就いた。しかし、彼の在任期間は短かった。トゥルハンは彼の政治的な目標が彼女の妨げになると、9か月後解雇した。
 トゥルハンは、最後の皇太后 としての摂政だったが、皇太后としての役割は重要だった。黒人宦官たちの影響力も、時には弱ったが、政府の運営には影響を及ぼし続けた。彼らは確かに宮廷の中では一番目立った黒人奴隷だったが、帝国内では黒人奴隷の割合は少なかった。

アフリカからの奴隷

 アンタラヤ港の1559年の税関の記録では、エジプトから海を渡って、様々なものが相当輸出されたことを示している。「男、女を問わず、奴隷が交易の積み荷だった。多くの船は 奴隷を独占的に運んでいた。」アンタラヤから輸入された、奴隷達はアナトリアの都市、(バスラ etc)に送られ、重量のある金襴の製造に特化された工場に回された。特殊な生産工程での奴隷の減少は、経済一般で奴隷の需要が増えたからだった。例えば、カイロでは需要の増加は、17世紀後半、商人や職人に富をもたらした。エジアアン県のアイドゥンでは、奴隷、自由人の数が多過ぎて、16世紀の後半、恐らく彼らの儀式や習慣が宗教的に疑わしいとして、議会で宣託された勅令が出された。キプロスの司法登録簿での黒人奴隷と自由人の数多くの記録は、島には相当の人数がいたものと思われる。奴隷貿易は帝国で18世紀を通して繁盛した。信仰のあるより裕福な家庭は必ず奴隷を使っていて、その奴隷に対する要求は、それぞれの民族の優先事項として調整された。「ギリシャ人はブルガール人を奴隷として好み、トルコ人はアフリカ人を好んだ」。
※ ブルガール人: 中世において中央アジアから移動し東ヨーロッパで活動したデュルク系遊牧民で、人種はモンゴロイドに属していた。
 きちんとした記録がないので、オスマン帝国における黒人奴隷に対する要求の重要さは推測の域をでない。確かなのは、初期の段階から、白人、黒人を問わず奴隷をとにかく当てにしていた。1453年初期、「征服者メフメト2世」 は奴隷の輸出を厳しく制限した。白人奴隷の供給が減ると、オスマン帝国は黒いアフリカからの奴隷に依存した。金持ちの家庭であろうが、社会の下層の家庭までいろいろ家庭内の仕事のために使った。彼らは大きなお屋敷で使れたり、輸送に携わった、小さな職人の工房でも同じように使われた。そして、多くの地域で軍事に関する奴隷としての重要が増えた。
 継続的な奴隷への需要は、コーランに従うことで、―奴隷解放―無償の慈悲行為であるとか、奴隷自身の稼ぎで得た限定的な自由をあたえることであるとか―効果的に支持された。これには証拠が、帝国内の手工業部門で多くの例があった。そのうえ、財産があれば、主人が女性奴隷を自由にするとか、結婚することは珍しいことではなかった。

オスマン帝国の終わり

 帝国の体裁を整えたり、過去に遡り遠征よる富で栄えた帝国は、また戦うことで維持する費用が必要で、税金を浪費した。戦争がウクライナに限定された、1669年から70年の予算を見ると、62.5%が戦費でサルタン家と宮殿には29.5%だった。戦争の企てに掛る巨大な経費を賄う回りくどく危険な方法は、オスマン帝国の国庫から現金の代わりに、現金引換券、約束手形の発行だった。1782年の大宰相の命じた調査によると、現金引換券に記載された名前の10%は戦争に駆り出された実際の人と一致した。二年以上にわたる給料の未払や戦場より書類に関しては手に負えない軍隊である宮殿のイェンチェリ軍団が、時々反乱を起こしたのは驚くべきことではない。
社会的、政治的、おまけに、経済的な革新が吹き荒れた西洋に対して、オスマン帝国は不毛の儀礼に傾倒していた。役人たちのグループ同士の、ローブ、スリッパの色、袖の形、ターバンの形式、髭の長さ、細かい違いにこだわっていた。それは、マフムト2世(1808-39)の時代に、帝国の近代化を目指して役人たちに、飾り立て差違を競う代わりに、新しい制服-黒いフロックコートと赤い円錐形のトルコ帽-にするまで続いた。聖職者からの不服を予想して、マフムト2世は彼らには伝統的な流れるローブと大きなターバンを許した。それでも尚、伝統を捨て、世界的に西洋を連想させる服装に対してデモや反乱が起こった。
 経済を近代化することは、服装を変えるのとは違う次元のだった。 19世紀後半なると帝国は西ヨーロッパから多大の借金をした、利子、元金が結局、すべてのコストのかかる項目でもっと多くの借金をすることになった。それがもとで奴隷貿易に関して、イギリスからのプレシャーに抵抗できなかった。1846年、それぞれの家庭ではまだ奴隷がいたが,イスタンブールでは奴隷市場が閉鎖された。1855年、オスマン帝国に奴隷貿易の禁止を押し付けることは、メッカのムスリム社会の長であるShykh Jamal は奴隷の使用を禁止することがイスラムの神聖な法に反していると、そして、トルコ人は西洋の宗教に対して背教者で異教徒だと聖戦を義務つけた。反抗はヒジャーズ地方で始まったが、1856年の6月には終わった。禁止令は1857年に発布されたが、ヒジャーズ地方は除かれた。そのことが奴隷貿易業者に仕事の持ち場を与えたが数字は減った、というのも西洋の国々がアフリカの占領地を広げ、それぞれの受け持ち地域や供給ルートを確保したためだが、アラビアやペルシャ湾での黒人奴隷貿易は続いた。
 強大国イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、ロシアが直接、間接にかかわった戦争、反乱が起こり、帝国の豊かな地方が奪われ衰弱し国土分割のペースが速まった。最悪の判断は、第一次世界大戦で敗戦国側に付いたことだ。戦争後しばらく帝国は持ちこた得ていたが、1923年トルコ共和国が誕生した。1924年、カリフ制が廃止され、世俗国家となった。イスラムの司法では奴隷制は許されていたが、1889年には、奴隷制も廃止された。
 オスマン帝国はには多くの抑圧や退廃もあったが、イスラム教の支配権のもとでさえ、他の宗派の社会と相対的に平和に共存するよう、一般的に宗教的寛容な政策を追求した。その過程と矛盾の余波で、特にバルカン半島で、民族的、人種的な過激で戦闘的なナショナリズムに対する狂信的な要求が続き悪影響を及ぼした。イスラム教にとって、オスマン帝国の世俗化はカリフ制の墓石で、帝国は信義に篤い社会を統一した世界的な国家の最後の生きた象徴だった。
参考
※Islam Black Slaves : Ronald Seagal (the Auther of The Black Diaspora)
※ ウィキペディア
※ 世界史の窓